「すみません。どんくさくって」
たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。
恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」
「はあ……」
笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。
確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。 階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。 このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」
「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」
一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。
確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。 見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』
片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。
『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』
きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。
「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」
「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」
「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」
初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。
「おはようございます、伸也君、三森さん」
「おはようございます、マスター」
白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。
比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。
なぜだか彼は私の方をじっと見下ろしていて、それが余計に私を焦らせていると、わかってはいただけないのだろうか。「えーっと」
バイトを始めて一週間、できることは少なくても、開店前の流れくらいは掴んでいる。
入口周辺の掃き掃除はしたし、後は。「あ! テーブルチェック、してきます!」
「はい、よろしくお願いします」
ダスターを掴んでもう一度お辞儀をすると、私はテーブル席の方へと、逃げた。
片山さんは優しいし話しやすいのだけど、マスターは少し、怖い。 別に怒られたわけでもないのだけど……無表情なことが多くて感情が見えないから。テーブル席をダスターで拭いて、シュガーポットの中身と紙ナプキンを確認する。
少なければ、後で補充するためテーブル席を覚えておく。 といってもそれほどたくさんテーブルがあるわけじゃないから、簡単だけど。 全テーブルを回って腕時計を見ると、ちょうど開店時刻の九時を指していた。 私はカウンターに視線を向ける。「マスター、お店開けていいですか?」
「はい、お願いします」
客席に面したカウンターがあり、マスターはその中でカップを一つ一つ湯を張った平たい鍋に浸している。
更に内側には厨房と対面しているカウンターがあり、そこからひょっこりと片山さんも顔を出した。「慌てて開けても、客なんてそうそう来ないけどねー」
「ちょっ、そんな」
「無駄口叩いてないで、早く仕込みしてくださいね」
「へーい」
揶揄するような口調の片山さんに、マスターは慣れているのか淡々と言い返す。
たった一週間だけど、二人のそんな空気に最初は戸惑ったけれどもう慣れた。 マスターはノンフレームの眼鏡をかけた、涼やかな目元が印象的な美人さん。 片山さんはモデルさんみたいに整った顔立ちだけど雰囲気が兎に角チャラい。けど、多分、案外気遣い屋さんで優しい。 そして、まったく見栄えもしない私。 このカフェの従業員は、この三人だけだ。―――あの二人が、カウンター内で揃って立ってれば十分客寄せになりそうなのになあ。
そんなことを思いながら、店の入り口を開け表のプレートを『close』から『open』にひっくり返す。
憧れた、あんなに華やかに見えた『flowerparc』(フラワーパルク)はすっかり寂れたお店になっていた。いきなり知らない人間がお花を届けても戸惑わせてしまうだけだろうと、まずはナースセンターを訪ねてみた。「すみません。お花を託って来たのですが……」「お見舞いですか?」「いえ、実は花屋のものなんですが、こちらに入院されてる清瀬さんという方に届けて欲しいと言われて……勝手に病室を訪ねていいものか迷ってしまって」私が成り行きを説明すると、看護師さんは困ったように眉を八の字にした。「あー……」「すみません。送り主の方のお名前がちょっと……娘さんらしいということしか」「あ、それは大丈夫です、わかってますので……」「は?」どういう事情なのか、意味が分からなくて首を傾げているうちに、別の年配の看護師さんが近寄って来た。「女性ですよね? 髪は長くて三十代くらいの」「そうです、ご存じなんですね、良かった」どうやら、看護師の間ではちゃんと認知されてるらしいことに、ほっとした。ショップバッグに入れたまま花束を二人の看護師に見せ、どうしたものかと指示を仰ぐ。「こちらなんです。いきなり花屋が患者さんの様子もわからず病室に行くのもどうかと思いまして、もしよかったら看護師さんの方から渡していただければ……」「大丈夫ですよ、お預かりします」苦笑いをしながら、年配の看護師さんが私の手からショップバッグを受け取ってくれたのだが。「清瀬さんは、拒否されるんですけどね」困ったものです、とため息をついていた。「えっ……だったら、それご迷惑なんじゃあ」「ちゃんと清瀬さんには見せて、それから先生にお返ししときます。その女性、ここの医師なんです」―――――――――――――――――――――――――――――――――「ここに注文に来られた時も、もうずっと帰ってないって言ってたし……何かわけありみたいな感じですよね」無事にナースセンターに花束を預けることができて店に戻り、一部始終を一瀬さんに報告した。お客様もちょうどいなかったので、カウンターの中で休憩も兼ねさせてもらっている。手の中には、アイスティのグラス。浮かんだミントの葉が、涼し気に揺れた。「清瀬さん、受け取ってくれたらいいんですけど……今までも、娘さんからの差し入れ全部拒否されてたそうなんです」「そうですね。娘さんの気持ちが通じると良いですが」一瀬さんは、賄い様のアイスコーヒーを作りながら話を聞いてくれて
結局、今店にある花で花束のオーダーを承ることになり予算や色合いなどを女性と打ち合わせる。「では、すぐにお作りしますね」「あの、実は持ち帰りではなく、届けていただきたいんです」「配送、ということですか?」「そういう扱いになるんでしょうか、やっぱり。その……すぐそこの市民病院なんですけど」と言って、女性は窓の外を指差す。ここからは見えないけれど、確かにその病院は歩いて五分もかからない場所だ。「お見舞いに行かれる、というわけではないんですか?」「ええ……ちょっと、時間がなくて。あの、いつでもいいんです、お手隙の時に届けていただけたら、と」そういった申し出が今までなかったため少し迷ったが、もうすでに会計もいただいてしまっている。一瀬さんに聞いてからの方が良いだろうかと思ったけれど、ちょうどいま接客中だった。「わかりました。後で良ければ。お名前をお伺いしてもよいですか?」届け先のお名前と病室は何も問題なくメモに書いて渡してくれたのだが。「あの、お客様のお名前もよろしくおねがいします」というと、彼女はあからさまに焦った顔をした。まさかそんな表情をされるとは思っておらず、私の方も戸惑ってしまい首を傾げてもう一度尋ねる。「あの、お届け先の方に、どなたからの贈り物かお伝えしないといけないので」「いえ。それは、いいの。知り合いからとでも適当に伝えておいて」「ええっ?」「会計は済ませてあるんだし、それで構わないでしょう? ごめんなさい、急いでいるので、後はよろしくお願いします」突然、かたくなな態度になって女性はバッグを肩にかけなおすと、くるりと背を向ける。「あ、あの! でも!」確かに、会計は済んでいるけれど。本当にこれでいいのだろうか?対応を考えているうちに女性はそそくさと店を出て行ってしまって、慌てて呼び止めた声はカウベルの音と空しく重なった。受けてしまった仕事なのだ、行かない選択肢はない。ランチタイムの後の暇な時間帯に、一度店を抜けさせてもらい市民病院へと花束を届けることになった。五分ほどの距離とはいえ、真夏の強い日差しにすぐに汗が噴き出してくる。日傘は差していてもアスファルトからの照返しで、肌がじりじりと熱かった。「あっつい……」と、思わず零れた独り言も、弱弱しい。早く建物の中に入ってしまおうと、急ぎ足で病院前にたどり着
** * * * ** * * * ** * * * **叶わぬ想いはいつか形を変えてそれは風化でしょうかそれとも成長でしょうか** * * * ** * * * ** * * * **夏も盛り、外を歩けば五月蠅いほどのセミの鳴き声とアスファルトからの照り返しで、あまりの体感気温に朦朧としてしまう。見上げれば真っ白な雲がもくもくと形を成して、背景の青を一層青く見せる。彼女が店を訪れたのは、そんな真夏の、昼下がりだった。「いらっしゃいませ」カラコロとカウベルの音が鳴り入り口に目を向けると、女性が一人ハンカチで汗を拭いながら立っていた。年は三十くらいだろうか。長い黒髪を横流して緩く結んだ、清楚で綺麗な人だ。彼女はカフェスペースには進まず、そのまま切り花を並べてある商品スペースの方へ目を向けていた。「何かお探しですか?」「実は……花を探してるんですが。名前を思い出せなくて」女性は、片頬を掌で抑えて眉尻を下げて首を傾げた。思い出そうとしているのか、視線を少し上向けて考えていたけれど、諦めたようにため息をつく。「実家に咲いてた花なんだけど……なんだったかな」「咲いてた時期とかわかりますか?」「それも、はっきり覚えていないんです。多分、春か夏頃?」申し訳なさそうに肩を竦める彼女に、「大丈夫ですよ」と声をかけて棚に並べてある本を手に取った。花の画像が季節ごとに分けられていて、後ろに花の名前で索引もついている。画像も全体像から花のアップまで掲載されていて、調べやすい。ぱらぱらと最初の方の春のページを捲り、彼女にも見やすいように本を傾けた。「ほかに何か覚えていることはないですか? 何科だった、とか。花の大きさとか背の高さとか、なんでも結構です」「えっと……」「はい?」「なんか、こう。枝が、わっさー、っと」そう言いながら、女性が両手を動かしてこんもりした山のようなものを表現する。「わっさー……ですか」どうも、女性の記憶はかなり曖昧らしい。大人らしからぬその表現方法についぽかん、と見つめてしまうと彼女は顔を赤くして俯いてしまった。「……すみません。言葉でどう表現すればわからなくて」「あっ! いえいえ。なんとなく、今のイメージからだと……雪柳とか、コデマリとかを思い出すんですけど」ページを捲って彼女に雪柳とコデマリの写
アジサイ寺、というのは実は全国各地にたくさんある。梅雨時期には、医学が発達していない時代には流行病で多くの病人や死人が出た為、亡くなられた人に手向ける花として、流行病の合った地域の寺に多く植えられているという。パンフレットに書かれた文字を追ってからアジサイを眺めると、なんだか少し粛々とした気持ちにもなる。医学が発達した現代だからこそ、こうして観光名所として花を楽しむこともできるのだけど。「すご……綺麗」「これだけのアジサイが集まると、圧巻ですね」これまでの道や階段にも、勿論ずっとアジサイが植えられていた。だけど、広い境内に出ると、思わず足を止めてため息が零れる。鮮やかなピンクや青のアジサイが、薄曇りのしっとりとした空気の中、無数に咲き誇っていた。最近は白いアジサイも人気があるらしいけれど、こうしてみるとやはり鮮やかな色彩には目を奪われる。「綺麗ですね……お店の花壇に植えませんか。挿し木で割と簡単に根付いてくれるらしいです」「季節に合わせて花を植え替えるのも大変ですし、それもいいかもしれませんけどね。花が見られる時期は減ってしまいますが」「あ、カタツムリ」ギザギザの葉っぱに、小さなカタツムリがのっそりと這っていた。ナメクジは見ていて気持ち悪いのに、カタツムリはどうしてこんなに可愛く見えるんだろう。殻を背負ってるだけなんだけど。屈んでカタツムリの行方を追っていたら、ポツ、と水滴が落ちてきて葉っぱが揺れた。「降ってきましたね」と一瀬さんの声がして、ポンと傘の開く音が聞こえた。ああ、降らないでいいのに。相合傘なんて、緊張して何話せばいいかわからなくなってしまいそう。アジサイの上に影が出来て、傘をさしかけてくれているのだとすぐにわかった。このまましゃがんでいても仕方ない。一瀬さんを待たせてしまうだけだ。よし!と、心の中でこっそり気合を入れて、振り向きながら立ち上がってすぐだった。「え……わっ?!」私の視界いっぱいに、一瀬さんの顔が飛び込んできた。多分、私に向かって傘を差しかけて彼も屈んでいたのだと思う。その事に気付かずに立ち上がった私は、驚いて不安定な体勢で後ずさり、身体を支え切れなくなった。「ひゃ……」「綾さん!」さっき、しゃがんでいたから良く知っている。この辺りは水たまりというほどではないけど少しぬかるん
うう……せめて、ジーンズくらいもうちょっと小奇麗なもの履いてくればよかった。せめて、と腕まくりしたまま忘れてたブラウスの袖を直していると、一瀬さんが車を降りてしまった。あわわあわわと、急いでもう片方の袖も直し終えたところで、助手席側のドアが開く。「では、早く行きましょうか。綾さんのお腹の虫がまた泣き出す前に」「……それはもう、忘れてくださいよ」またからかわれたと拗ねて口を尖らせる私に、一瀬さんが冗談混じりの軽口を叩きながら、手を差し出した。「私も少々、限界なんです。下手したら合唱しかねませんから」……夢みたいだ。一瀬さんに、こんな風にしてもらえるなんて。ふわりと、心が浮き立つ。まさに夢見心地で、私はその手に自分の手を重ねた。落ち着いた雰囲気の、古民家を改造したようなレストランはしっとりと大人の雰囲気で、少しだけ緊張したけれどすぐに慣れた。イタリアンなのに、出て来たのがお箸だったからかもしれない。装飾も兼ねてなのか棚にはずらっとたくさんのワインが並べてある。「そう言えば、一瀬さんはお酒って飲めるんですか?」「そうですね、付き合い程度ですが」あ、すごく似合いそう。水割りとか、ワインとか?と、勝手に想像していたのだけど、棚のワインをちらりと一瞥した一瀬さんの言葉は予想に反したものだった。「まあ、私はビールか日本酒が殆どですけど」「えっ?! そうなんですか」「……そんなに意外ですか」あからさまに驚いた反応の私に呆れたのか、一瀬さんは苦笑いをする。「綾さんの目には私はどんな風に映ってるんでしょうかね、たまに不思議に思いますよ」「どんなって、見たまんまです。大人で、いつも落ち着いてて」「お酒はワインかブランデーでも嗜んでそうな?」「あは……すみません。そんな風に見えました」「ただのおっさんなんですけどね。貴女から見ればそれこそくたびれた」「えっ、くたびれたなんて思ったことありません!」とんでもない!素敵だなあと思いこそすれ、そんな風に見えたことなんて一度もない。それだけは主張しなければと、つい勢い余ってテーブルに乗り出し気味に答えたら、またくすりと笑われた。ほんと、私は一瀬さんに比べて落ち着きがない。それを笑われたのだろうと、落ち込みつつきちんと腰を落ち着けて椅子に掛け直す。だけど、呆れられたわけではなかった
荷物を片付けて掃除をして、建物を出ると一瀬さんはすたすたと駅とは逆方向へ行く。どこへ行くのだろう、と後ろを着いて行くのだが、大荷物の殆どを一瀬さんが持ってくれているのに、彼の方が足が速い。着いた先は、コインパーキングだった。「えっ、一瀬さん、車で来られてたんですか」「勿論です。そういう綾さんは……電車だったんですね、もしかしなくとも」「は、はあ……車、持ってないですから」「この大荷物で……本当、呆れます」深々と溜息をつかれ、しゅんと肩を竦める。すぐ傍の黒い車から、ぴぴ、と音がして電子ロックが外された。「どうぞ」と、ドアを開けて促されたそこは、助手席側だった。躊躇っても仕方ない。「お邪魔します」ぺこんとお辞儀して、シートに乗り込む。……うわ、やわかい。車の種類は良くわからないけど、外から見た感じは派手でも特徴的でもなかった。けど、内装はなんだか重厚感溢れる感じで、シートの座り心地が良い。もしかしてすごい高級車だったりするのかな。でも外車とかなら、ハンドルは逆なんだよね?ついキョロキョロと車内を見渡してしまう。一瀬さんは後部座席に私の荷物を置くと、運転席に乗り込んだ。「それでは、何が食べたいですか」「なんでも、食べます」正直お腹が空きすぎて、本当になんでも構わない。この狭い車内で、また腹の虫が鳴くのを聞かれる前に、早く食べ物をお腹に入れてやらなければいけない。あんな恥ずかしいのはもう嫌だ。「食事のあと、アジサイ寺にでも行きませんか」車を走り出して少ししてからだった。信号待ちで、一瀬さんが徐にそんなことを言う。「アジサイ寺ですか?」「はい。ちょうどいま見頃だそうで」そして空模様を運転席の窓から覗き込みながら、続けた。「……降ってきそうですが。アジサイなら、雨も似合うでしょう」私もつられて窓の外を見る。すぐ上の空はまだ薄く青空が覗いているけれど、西の方は灰色の雲が覆っていた。「あ、傘」「ありますよ、一つですが大き目だから問題ないと思います」「……そ、ですね」一瀬さんは問題ないと言うけれど私からすれば、大ありだ。雨が降って欲しいのか欲しくないのか、わからない。心臓がとくとくとく、と忙しなくて落ち着かない。誘ってくれて、嬉しい、けど。どうして急に、という不安もちょっとあった。これは……デー